D メイソウ 4

命想

瞑想の神髄は命の開花だ。


命は自律神経に働いているので

開花とは程遠い自己否定を

体は緊張歪み=自律神経緊張として現している。


ならば、フィジカルからもアプローチしたい。


自律神経の活性化を図ればいいのであるから

座位に拘ることなく

緩むポジションをとって命直結のマントラ=名前を呼ぶ命想をする。



セッションでは

緩むポジション→仰向けで頭は横にし、片腕を上に挙げ、

反対の腕は肘を開き脇に置き、片膝だけ立てた姿勢にする。


(自律神経を活性化する個々に合った緩むポジションをお伝えし

セルフケアとしても活用してもらう)


このポジションを基に

さらに施術し自律神経の活性を図るのだが

アナハタに向け名前を呼びながらで

皮膚身に神示されている情報が開かれてくる。


先ずはジワリジワリと無自覚の自己否定が浮き上がってくる。



通常の瞑想では

雑念に囚われないようにするが

名前を呼ぶことでアナハタの扉が開き

押し込めていた自己否定が雑念としてお出ましであるから

「ソウカソウカ、無理なかった」と雑念にイタワリを照射する。


イタワリの音によって雑念が消えていく。

そうしたらまた名前を呼び、出たらイタワリを繰り返すことで

自律神経緊張緩和と共に浄化が加速し気づきがもたらされてくる。



名前と共にイタワリの音波云する命想は

そのまま日常にイタワリの音を使いやすくなる。


つまり知覚が活性化するので、感情の荒波、違和感に気づきやすくなり

イタワリを照射でき

売りコトバを買わなくなり、下からのコトバの使い方から解放されていく。



この事は

今までは六感体験によって意識=コトバの使い方を変えようとするスタンスで

その為には体験を深める必要がありネバベキで励まざるを得ない。


瞑想と日常に分離が生じやすいのである。(迷想だ)


しかし、コトバがエネルギーでありコトバの使い方が意識であることと、

名前に命の情報がファイルされている事が理解できるので

体験を待たなくてもいいのである。


六感は命の働きであり自律神経が活性すれば開かれてくるのだから。



自己否定で自律神経が緊張状態でエネルギーを受け取れなかったのだ。


名前を優しく愛おしく呼び、どこまでも深く自身をイタワル事は

緩みをもたらし自律神経の緊張緩和で生命力の活性化であり

自分自身を心地良くというか健気に感じるようになって行く。


それが優しく温かい眼差しに投影するのではないだろうか。




大概、

知識では自分を許し、愛し、認め有りのままでいいと解っているのだが

それができないから苦しいのである。


その大きな原因は知識・思考でやろうとするからで

頭ではわかっているのにできない→ストレスであり、自責する。


なぜならば、

体がNO!NO!そんなのできねぇ状態に陥っているのである。

つまり、感情は思考や知識では解放は難しい。


その思考や知識でネバベキとがんじがらめにしてきて

体の緊張歪みを生じているわけで

フリーズしたPCと同様に情報を入れるほど動けなくなる。



だから先ずは、

緩むポジションをとりフリーズ解消=自律神経緊張緩和を図ることが大切で

その上に名前とイタワリの音波云すると相乗効果で加速する。


無上の答と繋がるインナーチャイルドの声が聞こえる本来の

HEART(HEAR+T)を回復し

シンクロタイムリーの調和が連鎖する間に合っている世界が

日常に広がり、主役は自身の本来性にシフトする。主役はインナーチャイルド



体にスピリチュアルを見出す所以であり

メンタルだけでアプローチはかなり厳しいと実感する。

(体がNO!でいるのだから)



名前とイタワリの命想をやってみなハレ!



ハレで思い出すのがベナレスだ。

全部を徐々に黄金色から深いオレンジ色に染めてガンガーに太陽が沈んでいく。

「ハレ~ガンガーシャンブー」と讃えながら船頭がこぐ小舟に揺られ

対岸の町の祭りに向かった。


そばを中途半端な遺灰がゆっくりと流れていく。


群青色に変わってきた空には天の川が見え始め、

対岸では岸に沿って幾多の女性が膝までつかり、燭台を手に祈りをささげていて

その灯りが水面に照らされ地上も天の川の如く続いていた。


やわらかな風とその情景の中を

櫓をこぐ音と共に繰り返し聞こえる「ハレ~ガンガーシャンブー」が

ヨギの無邪気で優しく温かい眼差しと

包み込まれるような心地よいオーラと重なったことを。


求めていた答があった。




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D メイソウ 3

名前こそマントラ

瞑想は自身の命を開くことだが、命は名前という「音」なのである。

名前に秘められている情報を開くことが瞑想の神髄ではないかと考える。


宇宙を構成する光透波の音が命の根源であり、その音を名前として授かっている。



名前に

自身の本来性の情報がファイルされているのである。

宇宙の叡智・六感覚の潜象界・潜在意識・能力など命直結のあらゆる個人情報が。


NAME→N+AME

Nン云(ハコブ)AMEアメ天と示すように

親や名付け親を介して天がセットした音であり

一人一人の命にマッチした音を天によって云(はこば)れている。




名前からアプローチすれば

自己否定は自身の名前を否定していることである。名前が好きか嫌いか


なぜそうなったのかというと

○○○、だめでしょ!

名前にネバベキのネガティブエネルギーを載せられ呼ばれて来たからと思う。


名前を否定すると

NO+NAME→NON+AME

天を顕現できないのであり、顕現するのは自己分離であり

それを体は正直に緊張歪み(自律神経緊張)として現している。


名前を否定され潰されてきては開きようがないではないか。

その重苦しさが自分探し君に駆り立てたて、

瞑想に求めるようになったのである。




名前に情報がファイルされているのだから

自身の名前を優しく愛おしくアナハタに向け呼ぶことで

開示されてくることがわかるではないか。


それが自己否定から脱却するテクニックと思う。


自己否定が無くなることが成就の扉を開くのだ。

なぜならば、成就とは絶対肯定なのだから。



名前を否定しながら(無自覚であるが)

シノゴノと思考や知識で脱却を図っても難しいと解ってこないだろうか。


なぜかと言うと

自己否定とは他の誰でもない自分自身が

ネバベキと思考と知識で自身の命を否定し潰しているわけで

その命は名前なのである。



イニシエーションで授かったマントラも良いが

自身の命に直結している「音」=名前をマントラにしたらどうだろう。


名前は天が親を介して授けたマントラだ。


ダイレクトに情報開示で

自己分離・自己否定が生じる隙間が無いと思う。



瞑想時だけでなく、アナハタに向け優しく愛おしく名前を呼ぶことだ。



自己否定でH(叡智)が後ろに引っこみEARTH化し

凍結麻痺したアナハタが開けて、Hが戻った本来のHEART


HEART→HEAR+T(無上の十=ト答)


宇宙の無上の答であり自身の本来性、

インナーチャイルドの声を聞く事ができるハートを回復する。



その声が聞こえないが故に日常に反映できず

まだダメ、まだ足りないと自己解放を自己否定しながら励んできた。

(アナハタを閉ざしながら開こうとしていた)


そのからくりが「名前が命」と理解できたことでわかってきたのである。



アナハタが開けば、オートマチックの如くチャクラは連動していく。




D メイソウ 2

瞑想はマントラという「音」を使って、

潜象界=命の世界=六感覚=自身の本質にアクセスする。


普段使う音=コトバには意味が必然するが

マントラは意味を持たせず「音」そのもののを使うこと。


ということは「音」が潜象界=命の世界=六感覚=自身の本質である。


マントラという「音」にそのエネルギーが無ければアクセスしようがないのだから。




自分探しに駆り立てた満たされない想いは

この世の仕組みをネバベキで押しつけられてできた自分と

自身の本質とのギャップではないだろうか。


自身の本質=命が閉ざされた状態で、台頭するのが自我である。


それが自己分離であり、

ネバベキが構築する思考と感情の自我であり

無自覚に自分自身をジャッジし自己否定に陥っている。



瞑想での光の体験を感覚的に言えば「愛と感謝、イタワリと許し」だ。

醸し出されてくるそれこそが

命の実態であり、自身の本質と理解できる。



迷想

瞑想では自身の本質に触れる事ができてくるのだが

日常は今まで通りのネバベキの音を無自覚に使っている。


深い体験によってコトバ=意識は変えられるとしているので

よほどの体験が無ければ

刷り込まれたネバベキ(ジャッジ)はそう簡単には消えはしない。



だから、更により深い体験を求めて瞑想していたわけで

日常生活にギャップが生じるのは当然で、

瞑想の体験に固執してしまい周りとの波動の違いが浮き彫りされ

波動が悪いとか、意識が低いだとかジャッジしてしまう。


六感体験することで波動に敏感になるが故に

本質は六感の世界であり現実の日常を否定しジャッジしてしまう落とし穴で

ベナレスのヨギのような無邪気で優しく温かい眼差し、

包み込む厚みのあるオーラとかけ離れてしまう。



ヨギの眼差しに見い出した答が解るが故に

求めれば求めるほど日常に降ろせないジレンマに

もっともっと・まだ足りないと一層瞑想にのめり込んでいた。


(そりゃそうだ、日常の現実を否定しながら投影しようとしているのだから)


自己解放を自己否定しながらの迷想となった瞑想のドツボにはまり込んでいた。


このドツボをクンダリーニ症候とか禅病というのではないかと思うのである。

(自律神経緊張症状である)


せっかくの六感体験を持てても

瞑想を離れればネバベキの音=下からのコトバの使い方にロックされていて

それを体験によって変えようとしていたからだ。


だからそのロックを解除できる強烈な超越体験を求めざるを得なかった。


得られなければヒマラヤに寝泊まりに行かなければ

出家しなければ、あるいは共鳴する人とのコミュンにしか行き場が無い。




小田野先生との出会いで

コトバが意識を創っている事の理解が深まると

ジャッジするネバベキの音の使い方を止めれば良い事に気づき始めてきた。


六感体験によってこそ意識が変わると限定していた事にゆとりが出てきたのである。



自己否定とジャッジを生むネバベキと真逆な音、

「ソウカソウカ、無理なかった」「モンダイナイ」のイタワリの音に気づかされたのだ。


その音は過去の行程を肯定し今を近づけ、過去の闇を加光するエネルギーなのだ。


その音が瞑想時に限定された六感覚体験を日常にジワリジワリと

投影しやすくしてくれる。


具体的に言えば

「売りコトバに買いコトバ」から

買わずに「ソウカソウカ無理なかった」「モンダイナイ」と

自身をイタワル音の使い方にすることだ。



体験により意識を変えると限定していたが

イタワリの音を使うことで六感体験をしやすくもし

日常に降ろしやすくなることがわかってきたのである。


体験を待つことではなく

イタワル事で意識が本来性に回帰し出すのである。


買っていたらカルマのままで解放はできようがないではないか。



瞑想と日常の分離が溶解し

日常そのものに精神性を見出せるようになってきたのである。




D メイソウ 1

自分探し君

1979年、本当の豊かさってなんだろう?とインドを放浪していた。


抑圧の反動があるが故に

自己防衛があり、自身の思考と感情が正義で戦っていては

周りを気にし無自覚だが緊張がある。


それでは何かわからないが満ち足りない想いにさいなまれ

自分自身に心地良くはなく

私は私でありたいと自分探し君していたのだと思う。




「兄ちゃん、これ買わないか。お金ちょーだい・・・」

毎度ながらのバクシーシの嵐に少々うんざりしながら

人も牛も野放しの犬もリキシャもごちゃごちゃのベナレスの雑踏を

ぶらつきながらガートに向かっていた。


(ガートは聖なる河ガンガーの水で沐浴し祈りをささげ、

少し離れた所では火葬していてまだ中途半端な灰がガンガーに流れ

生と死が同居している。


014[1]



夕方のガートは大きな太陽が全部をオレンジ色に染めてゆっくり沈んでいく。


生と死の同居が何千年と続いているその中にたたずむのが好きで

朝に夕に出かけていた。)




後ろから「ナマステ ジャパニ」と声をかけられた。

その声にまたバクシーシかとよぎりながら振り返ってみると

道端で瀬戸物を売っている男の人であった。


パチンと目と目が合った瞬間に猜疑心は消え失せてしまい

ツカツカと歩み寄っていった。


ほんの一言二言の会話なのに、

猜疑心どころか包まれるような心地良さと

長い間会っていなかった人に会っているような親しみを感じる。



後でわかるのだが、ヨギであった。

長髪の黒髪で無邪気で優しく温かい眼差しを向けてくれ

年の離れた兄貴のように感じた。


ただ一緒にいるだけで心地良い。



体の奥から、これだ!求めていた豊かさは と響いた。



無邪気で優しく温かい眼差し

一緒にいるだけで心地良い、調和を醸し出している波動だと。



今になって振り返れば、

そのヨギは自己分離が無い、私が私である状態で

命を開花し内から湧き起る思いに素直で

損得の思惑も怒りも恐れもなく、

命の本来性をその眼差しとオーラに現していたのだと解る。



答を見つけたのだが

どうしたら手にできるようになるのだろうか。


その手段を超越瞑想(TM)に見い出し

瞑想にはまってきたのである。


手にしたいが故に

もっと浄化しなければ、もっと体験を深めなければと

ネバベキで規則正しくやっていたのだ。



自己解放、私が私でありたいのに

ネバベキでやっていては瞑想と日常にギャップが生じるのは

無理なかったとしみじみ思う。



コトバが意識を生んでいると、1984年に小田野先生と出会うまでは

まだ音の仕組みに気づいていないので

一生懸命ネバベキで答を求めるほど知識の構築と裏腹に

答は遠のくパラドックスで

瞑想が迷想になっていたと振り返えるのである。



私が私でありたいのに、自己解放したいのに

ネバベキで自己否定しながら励んでいたのである。


「ソウカソウカ、無理なかった」、本当に無理なかったのだ。




D瞑想を振り返る 4

なぜ長時間の瞑想が必要なのか
潜象界=真我にアクセスはそれ程難しい事なのか。

コトバの仕組みがわかってくると時間は関係なくなるように思います。
日常に精神性を開ければいいのだから。

xでわかるように
ネバベキのジャッジを止め、「愛と感謝、イタワリと許し」
「ソウカソウカ、無理なかった」→行程を肯定する音で今が近づく。
「モンダイナイ」→問題が無くなって行く
(問題は、問題と認識する思考と感情=コトバの使い方にある)



潜象界はコトバの本質で成り立つ(言+成)
誠=宇宙意識=愛と感謝、イタワリと許しで充満し何一つモンダイナイ世界。
現象界はEARTH質の有限相対差別の世界
それに翻弄されてネバベキとコトバを使うので許すことができず
モンダイアリの世界を現象している。

個々の世界観はどのようなコトバを使い認識し意味付けている思考と感情に因るわけで、
WORLD→WORD+L(開く意味)とズバリと教えている。

授かっている命=真我と違うから問題とわかるわけで
命がEARTH質でできていればその質と同調するので問題の自覚はあり得ない。



潜象を現象化するのが難しかったのは
コトバを比較競争差別=ネバベキのジャッジに使い続けているからではないか。
できるようになったらジャッジを止めましょ。
許せるようになったら、愛せるようになったら、認められるようになったら・・・そうしましょ。
感情にガッチリとロックされているからではないだろうか。

「ソウカソウカ」「モンダイナイ」・・・許すコトバ・愛すコトバを使うから
感情が本来性に回帰していくわけで、
感情が変わるのを待つから長いのではないだろうか。
瞑想は感情が変わるのを待つスタンスでその体験を現象界に持ち込もうとしていた。



感情はコトバと理解できると
感情を客観する理知=叡智(H)が台頭し、
EARTHのHが前に来てHEARTになり、
天の声が聞こえる感情(HEAR+T)に回帰できると考えます。

逆に理解できていないと
コトバを変えずに知識や思考で感情を変えようとしてしまう。
それに触れた時は納得し構築はするが、無意識無自覚にネバベキの音にロックされているので
ジャッジスタンスのままです。

ジャッジが無くならない限り、感情は抑え込まれこう考えネバならないとなり
出来ない自分を否定し自分とのタタカイが続いてしまう。



前世を含め長い間、感情にロックされていたので何よりも感情が大事で
その満足を追い求めていた。
ネバベキの音に支配されているので、自分という感情を客観することは容易ではなかった。
主観に埋没では苦しく、瞑想がロック解除をしてくれる唯一の手段であったと思う。

耽美な体験が頼りとなり、それを求め瞑想がどんどん長くなるのは無理が無いし
まだ学びが足りないと外に知識・情報を求め続け、頭ではわかるが降りては来にくいので
「今茲」と言いながら上へ先へと求め、無邪気さを考えているのではないか。

瞑想から戻れば、ジャッジする感情が顔を出すのは無理もなく、
重さや荒さが浮き彫りになり
自我を超えろ無くせのタタカイ=禅病、クンダリーニ症候だ。



コトバが究極の場のエネルギー、「光透場」なので
比較競争差別に使っている限り、それに付随する場のエネルギーが展開します。
本来性のコトバに変えれば本来性が展開する。

そしてコトバの出力は
「秘田ー中丹田ー丹田」の生命ラインがいかに整うかに比例します。

究極のエネルギーとは潜象界を根底から支えてるキャパで、
その速度は何万光年離れていようとも瞬時(1/∞秒)で到達する。

そのエネルギーで念・意識ができているので
地球時間を超え異次元融合やアストラルトリップが可能と考えられます。
(コトバを比較競争差別のEARTH化に使っていれば、
意識は地球時間に拘束されるのは当然ではないだろうか)


どこで詰まるかというと中丹田=アナハタだ。
自己分離、自己否定が詰りを作りコトバのエネルギー(念)を弱めている。
お分かりのように、ネバベキの音でありジャッジです。
感情にロックされ、感情が変わったら・納得したらコトバを変えるスタンスでいて
思考や知識で変えようとしていた事に気づきます。


感情がコトバを作っているのではなく
コトバが感情であることを深く理解できるほど理知は高まり
「愛と感謝、イタワリと許し」のコトバの本来性を日常に展開するほど
感情のロック解除ができ、感情から感覚にシフトするのでシャープになって行く。

それは2万Hz以上の波動の感応力の皮膚感覚活性であり
自律神経末端の活性は中枢の間脳力とリンクし六感世界が開きやすく
チャクラも自律神経の働きと考えるとわかりやすい。


テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

D瞑想を振り返る 3

潜象を現象化する
真我の現象化が瞑想と考えるが、スムーズにはいかなかった。
「今茲」の充実感を体験しても、
日常という現象界に戻れば「今茲」を上へ先へと求める回路に変わってしまう。

なぜならば、瞑想中では六感の世界=真我にアクセスしやすくなるのだが
終えれば無自覚に下からのコトバの使い方に戻りジャッジしていたからだ。

下からのコトバとは「売りコトバに買いコトバ」であり、
スピリチュアルに造詣が有がゆえにその知識でジャッジしてしていたので
精神世界と日常に垣根があり、潜象を現象化しにくかったと思う。

だからコトバを超えた世界とかコトバでは表せないというのではないか。
しかし、そういうコトバで表しているんですね。
それを自覚出来ないほどコトバは自分と一体化しハタラキを客観できない。



誠は言+成とズバリのように、真我=宇宙意識はコトバで成立している。
コトバの本質は比較競争差別、嘘偽りのない無限絶対全一のハタラキなのに
それをEARTH化し比較競争差別、嘘偽りに使っている為に
天の声が聞こえないHEARTに陥り自我を強め自己分離、自己否定にもがくわけです。

その分離、否定が強いほど自分の命を潰しているわけで
「秘田ー中丹田ー丹田」の生命ラインは詰り、
自律神経緊張=中心軸の歪みで心身の不調になるのは当然で、
いくら医学が発達しても病人は減らない。


分離するコトバ、否定するコトバを使い続けながら自己解放、真我の顕現を
体験だけを拠り所に一生懸命瞑想に求めていた。



+を現象界、-を潜象界とするとわかりやすい。
x
現象界に現象を掛けても現象界の枠の中。
売りコトバに買いコトバで対応している世界です。
記憶、培ってきた知識、固定観念を基にジャッジする下からのコトバの使い方。
x
瞑想で潜象界(-)を体験しても、今までと同じコトバの使い方=売りコトバに買いコトバや
ジャッジしていては潜象界は現象化しない。
答の-は現象化しない意味。
x
潜象界(-)に潜象を掛けると現象化する。


潜象を掛けるとは
売りコトバに買いコトバをしない、売られたコトバを買わない、ジャッジしないこと。
潜象界は「愛と感謝、イタワリと許し」で充満している、
その体験が有っても、コトバのハタラキに気づかないと無意識に下からの使い方と
ジャッジ(スピリチュアルの知識で)しやすい。

売られたコトバを買わず「愛と感謝、イタワリと許し」のコトバを使うことであり
ジャッジせずそれはどう言う事だろうと問いを深めていくことと考えます。

潜象界は何一つ問題ない世界だから、問題を感じたら「モンダイナイ」を使う。
いたちごっこのようだが、問題を感じたら「モンダイナイ」を回すうちに
潜象が現象化し問題が無くなって行く。
なぜならば問題は
問題とする思考と感情にあり「モンダイアリ」のコトバを使っているからです。

ネバベキはジャッジし概念・固定観念を強め現象に留まり続ける。
ナニナニは問いを深め概念・固定観念を緩め現象を通して
原因=潜象界にアクセスし理知力を伴う無邪気さを醸し出す。


現象界=自我=比較競争差別の感情が展開する世界に捕まっていることは
ネバベキと比較競争差別のコトバを使い続けているからです。
潜象界を現象化するにはネバベキのジャッジを止め、
愛と感謝、イタワリと許しの音を広げナニナニと問いを深めれば良い事が見えてくる。


振り返れば
瞑想で精妙な体験をし日常に戻ってくると、その重さや荒さを感じてしまい
日常という現象を否定しジャッジしていたのだ。
その差が精神世界と日常の分離であった。
オーラはきれいだが薄い瞑想者を見るが
潜象界を日常にドガーンと現象できないトルクの弱さに思う。
体験が有っても感情にロックされやすく無自覚にジャッジしているからではないか。


潜象界の耽美な体験は大いなる力だし、それをトルクを持って現象化するには
コトバのハタラキ・エネルギーに気づくと面白い。




テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

D瞑想を振り返る 2

命(真我)と顕在意識(自我)とのギャップの不快感が
瞑想に駆り立て自我を無くしたいと熱心にやっていた。
つまり、自我を否定しているスタンスだった。


命=生ー死、主観面では感情。HEARTの働き 3
授かっている本来性は宇宙意識=完成された情の完情=愛だから
生まれた時は天真爛漫純粋無垢、誰も初めからひねくれてはいない。
本来のHEARTは天の声が聞こえ直結している(HEAR+T)。

その質を持って地球に降りて来るが、相対界のため比較競争差別があります。
それがネバベキの音にロックさせジャッジの世界=概念、固定観念に縛り
自我という比較競争差別の感情に陥ってしまうわけです。

天の声が聞こえるHEARTがH(叡智)が後ろに行って、EARTH化され
聞こえるのは自己防衛と感情の満足を求める計算と思惑の自我の声で
その満足を求めるほど裏腹に本質とのギャップで命の不足感が増してくる。


ネバベキを刷り込まれるほど
今を肯定できず自己否定に陥り、本来性との分離で命を潰し
ギャップの不快感や不足感が瞑想に駆り立てたわけです。

コトバのハタラキに気づいていないので
日常に戻れば今まで通りネバベキの音を使いジャッジし続けていました。
耽美な世界の自覚がネバベキの音にロックされている自我を否定する落とし穴で、
内圧は高まるし「今茲」はわかるが上へ先へ求め続けてしまうので
瞑想に費やす時間が長くなるのは無理がなかった。



瞑想の目的
天の声が聞こえるHEART=無邪気さと愛と感謝、イタワリと許しの感情に回帰。
コトバのハタラキがわかると
ネバベキの音をやめれば自己否定、自己分離が無くなって行くことがわかり
ジャッジから愛と感謝、イタワリと許しの音を日常に広げればいい。

その音の使い方が精神世界と日常の垣根を取り払い、日常に精神性を広げるので
わざわざ山に籠ったり出家の必要がありません。
緊張が漂うMUSUT DOから気楽な趣味の瞑想へ。

     言+l


言が意識
地球の質=比較競争差別が生むネバベキのジャッジが自我を作っていますが
自我を否定したり無くそうとしなくていいとわかってきた。
自我という板を天意を成立する愛のコトバで割ればいい。
許せない自分、恐れている自分、できない自分、怒っている自分を
否定するのではなく認め許し愛す。

天は懲らしめようとか、罰を与えようなどは微塵もなく全てを許し愛しているのに
自分が分離感を持ち自己否定に苦しんでいるわけで
否定を丸ごと受け入れることで主ロで「主が露れる」仕組みで
内側から気づき=インスピレーションが湧き起ってくる。
それが天の声が聞こえるHEARTと言えます。


コトバがあまりにも自己化しているのでハタラキがわからないため
自我を無くせ、終焉した世界と自我を否定するスタンスでした。
自我が無ければ割ることはできないわけで
自我を愛と感謝、イタワリと許しの音の本質で割ることが板割=イタワリ。

コトバに気づけなかった頃は「自分を割る」とは
こんな自分ではダメ、もっとこうあらネバベキで現状を否定し
上へ先へのビジョンでいるので「今」が近づきようがない。
しかし、文字が教えるように割ることはイタワルことだった。

       ソウカ

イタワリは
感情にロックされていてはできません。
なぜなら、感情が納得しないからです。
自分という感情を客観できるからこそで
感情から感覚にシフトしシャープさを醸し出すので六感覚が高まります。
本来性、命の活性化、自律神経緊張緩和で
2万Hz以上の波動をキャッチする皮膚感覚の感応力が高まるので当然ですが。

自分を割ることは「清く正しく美しくあらネバベキ」ではなく
ドロドロの自分をそのままイタワル事に気づきます。
「ソウカソウカ 無理なかった」と。

自己否定は溶け出し、天の声が聞こえるHEARTに回帰していくのですが
有難いのは無いものを獲得するのではなく、元々セットされていることです。

EARTH化された感情にロックして主観に埋没しもがいているのだが
それを客観できればいいわけで、その力はイタワルことで育まれていき
後ろに隠れたH(叡智)を引出してくれる。EARTH→HEART(HEAR+T)
客観力が理知=叡智(H)ですから。

「ソウカソウカ 無理なかった」イタワリの音のエネルギーは
過去を加光にする=人生の行程を肯定するので今が近づき
日常が瞑想になって行く。


テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

D瞑想を振り返る 1

先日の9月5日、日記のトピック欄
1981年TM(超越瞑想)第5回目のシディ合宿終了とあった。
あれから34年か
精神世界の扉を開き共にまい進していた仲間はどうしているだろう。

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「自然の支持」というコトバに憧れワクワクでやっていた。
ババジ、ヨガナンダ、ラマナマハルシ、スリ・ユクテスワ・・・聖者や
M.ドーリル博士、ヴェーダ・・・精神世界を読み漁った。
瞑想のきっかけとなったインド・ネパール放浪時に目の当たりにした
ヒマラヤの神々しさが焼き付いていたので
あの山のどこかにシャングリラがあり、アモルファスの谷があるのだろうと
特に「ヒマラヤ聖者の生活探究」は愛読していた。



瞑想体験は耽美であり日常の顕在意識では捉えられないもう一つの世界があり、
六感覚の世界に本質があると自覚を深めてくれた。
少しでも近づきたいが故に、何よりも瞑想が第一で規則正しくは勿論、
進化の波に乗り遅れまいと菜食にもし熱心にやっていた。

振り返れば
そのスタンスは、もっと清く正しく美しくあらネバ・ベキでやっていた。
こんな世界じゃないんだ、本質は違うんだと無意識だが
何か満たされない想いの反動が駆り立て瞑想を始めたはず。

本質に近づき自然の支持に同化したいとなるわけで
耽美な世界に魅かれ規則正しくというより瞑想に費やす時間が長くなり
日常に戻れば重さや荒さを感じてしまい、
付き合いは同調しやすいTMERが主になり盛んにコミューン話が持ち上がっていた。


HEART

意識はコトバ
「言」の文字でわかるように、真我の本来のHERATとERATH質の催眠術に
罹った自分(自我)とのギャップの不快感が瞑想に駆り立てたはず。
瞑想はマントラという音のエネルギーに乗り本質にアクセスし、
本質ですから心地良い、しかし止めれば自我に戻ってしまう。

なぜならば、瞑想に駆り立てた反動に気づけていないため
記憶や概念に基づく今まで通りの下からのコトバの使い方=ジャッジに戻り
無自覚の自己否定のままなので真我はなかなか浸透しにくい。
だから深い瞑想、体験を求め長く費やしていた。

もっと瞑想しなければならない、こう在るベキ・ネバと躍起で
自己解放を自己否定しながらのジャッジという落とし穴があった。


耽美な世界の自覚と日常の重さ荒さのギャップで浄化を求めていた。
奥底に渦巻くドロドロの感情を吐き出しそれを許し認めイタワル事が浄化なのに
ドロドロを否定し清く正しく美しくあらネバベキとしっかり蓋をしていた。
蓋をするほど内圧は高まり、その分瞑想で抑える必要があり
やればやるほど内圧は高くなり禅病、クンダリーニ症候の危惧があったわけだ。


テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

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桑原大治

Author:桑原大治
宇宙は光透波
無限分の1秒で無限大を回る絶対速度、命でありコトバの本質と解く小田野早秧先生に1984から御逝去の2001まで師事し光透波理と字割を元に、埼玉県川口市でカルナ治療院を開いています。

腰痛、膝痛、首痛、顎関節症、スポーツ障害、内臓疾患、ウツ、自律神経失調症
メンタルからもアプローチしながら対応します。
改善しにくい原因に、無自覚の自己否定、口呼吸、菌の影響があります。
MMSのアドバイスもします。

予約制、水曜・木曜休診

JR武蔵野線、地下鉄南北線(埼玉高速鉄道)
東川口駅歩3分 

問い合わせ
kt99av@bma.biglobe.ne.jp

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